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貧困と生活保護(1)90年代後半から日本は変わった 読売新聞の記事より

貧困と生活保護(1)90年代後半から日本は変わった

http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=120109

原記者の記事を紹介します。


10年ぐらい前まで、日本の社会問題として「貧困」が語られることはまれでした。

 経済成長によって、全体としては物質的に豊かな社会になり、貧困はすでに終わった問題であるかのように思われていたのです。

 けれども貧困は再び、大きな社会的テーマとして立ち現れています。

 なぜか。大きく分けて、二つの要素があります。

 一つは、経済的な貧困の拡大です。収入も資産も少なく、生活に困窮する人が増えたのです。大きな背景として、格差の拡大と、低年金・無年金の高齢者の存在があります。

 もう一つは、社会的な関係の貧困です。単身生活の人が増え、孤立して暮らす人も多くなりました。そこに経済的な困難、あるいは障害や病気が重なると、まっとうな生活を送れず、場合によっては亡くなってしまいます。背景には、家族や地域社会の変化もあります。

 今回のシリーズでは、貧困をめぐる問題と、それに対応する社会制度の中核である生活保護の利用方法や課題について、取り上げていきます。医療にかかわる問題にも触れます。


98年、激増したホームレス

 少し時代をさかのぼって、歴史をたどりましょう。

 筆者が直接、貧困にかかわる取材を始めたのは、1998年でした。

 その年、屋外で寝泊まりするホームレス状態の人(野宿者)がどっと増えたからです。大都市を中心に、公園や河川敷にブルーシートのテントや小屋を作って暮らす人たちがあふれました。夜になると、駅の周辺、ビルの陰、商店街の一角などで、段ボールや毛布にくるまって寝る人たちも大勢いました。

 もちろん、路上で生活する人たちは、昔から存在していたのですが、97年から増え始め、98年には激増したのです。なかでも多かったのが大阪市で、98年8月の同市の調査で確認された野宿者は8660人。実際は1万人を超すと言われました。

 それまでとは全然違う、異常な状況が生じていました。

 いったい、これはどういうことなんだ、どうやって暮らしているのだろう、と思って、路上や公園などで生活する人たち自身に、話を聞いて回りました。

 わかったことが、いくつかありました。

 まず、野宿生活の厳しさです。食料の確保の大変さ、寝場所の確保の苦労、冬場の寒さ、少年らによる襲撃の恐怖……。とても、好んでやれるものではありません。

 建設・土木の日雇い労働者や零細事業所の不安定雇用だった人たちに加え、会社勤めなど“普通の生活”だった人もかなりいました。最底辺の生活に転落するまでのいきさつは人によって違いますが、多くの場合、ホームレス状態に陥った直接の原因は、失業でした。そして、彼らが何よりも求めていたのは「仕事」でした。わずかな現金収入を得るためにアルミ缶集めなどの雑業をしている人も少なくありません。けっして、怠けているわけではなかったのです。

 もう一つ、重要な問題がありました。お金がなくて、住む所もないほど困っているのに、生活保護をなかなか受けられないことでした。

 「住所のない人は保護できない」「まだ65歳になっていないから、働けるでしょう」などと言って、生活保護の申請もさせないで追い返す福祉事務所が少なくなかったのです。明らかに違法な対応が、そのころは、あたりまえのように横行しました。


経済と社会の変曲点

 さて、この時期に何が起きたのでしょうか。

 実は、自殺が激増したのも98年です。それ以前は2万~2万5000人台で推移しており、97年は2万4391人だったのが、98年は一気に3万2863人にはね上がったのです(警察庁集計)。増えたのはホームレスと同様に、主に中高年の男性でした。その後、自殺者数は2011年まで3万人を超え続けました。

 経済・労働情勢を見ると、この時期は、戦後日本が初めて経験する「大失業時代」でした。97年11月に北海道拓殖銀行山一証券という金融大企業が経営破綻したのをはじめ、大手企業のリストラ(人員整理)が相次ぎました。完全失業者数は、97年12月時点で239万人だったのが、翌98年12月には300万人に達しました(政府の「労働力調査」の数字)。

 国の政策で言うと、97年4月、それまで3%だった消費税が5%に上がっています。このころは橋本龍太郎内閣で、財政再建路線を取り、歳出も引き締めていました。

 バブル経済が崩壊したのは91年春です。その後、不景気になっても、一時的な現象でそのうち回復するだろうという見方が一般的だったのですが、いっこうに回復しないまま落ち込み、そのまま平成デフレに陥ります。そうやって結局、バブル崩壊から20年余りにわたって、日本経済は停滞を続けたのです。


崩れた雇用のセーフティーネット

 何が言いたいのか。90年代後半からの変化は、単なる景気動向による変化だけではなかったということです。もともと日本の企業では、終身雇用、年功賃金、企業別組合という慣行が一般的で、家族主義的な経営が特徴だったのですが、企業が生き残るため、リストラという名の首切りが行われました。人事管理の面でも、能力主義成果主義の評価手法が広がりました。さらに、外部委託や派遣労働が広がり、非正規労働者が大幅に増えました。

 そうやって、不安定雇用が拡大し、雇用のセーフティーネットが崩れたことが、貧困が広がった大きな原因の一つでしょう。そのうえ、不安定雇用の場合は、社会保険制度によるセーフティーネットにも穴が開いています。そうなると、最後のセーフティーネットである生活保護がしっかりしていないと困るのですが、そこにも不備がいろいろあるのが実情です。

原昌平(はら・しょうへい)

読売新聞大阪本社編集委員
1982年、京都大学理学部卒、読売新聞大阪本社に入社。京都支局、社会部、 科学部デスクを経て2010年から編集委員。1996年以降、医療と社会保 障を中心に取材。精神保健福祉士。2014年度から大阪府立大学大学院に在籍(社会福祉学専攻)。大阪に生まれ、ずっと関西に住んでいる。好きなものは山歩き、温泉、料理、SFなど。編集した本に「大事典 これでわかる!医療のしくみ」(中公新書ラクレ)など。

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